四国の岩澤さんについて

西日本で点在する岩澤/岩沢さんのルーツについて

旗本岩澤氏について

同族かもしれない岩澤さんに、旗本岩澤氏がある。というのも家紋が同じらしいからだ。ということで、実際に資料にあたってみた。

資料は、「寛政重修諸家諸巻第千三百五十一」。この中に平氏良文流のいくつかの家の家系図が書かれている。そしてその中の一つが岩澤氏だ。

今はすごい時代で、国会図書館に収められている資料がネットで読める。

https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M2015120715211619925

公開されてるし、江戸時代の著作なので著作権もへったくれもない。さっさと見て行こう。

最初に書かれている高樋氏のところに、「先祖千葉を称し云々」と書かれているので、この巻に纏められているのは千葉氏流ということになる。

岩澤は「いはさハ」となぜか最後だけカタカナになってる。

最初は「教正(よしまさ)」さんだ。通称は次右衛門。「大猷院殿(徳川家光)の御時?れて御臺(台)所人となる」、と書いている。

というか、これ、料理人だったってこと?それとも御台所関係の役人さん?

最初の大猷院殿というのは徳川三代将軍家光のこと。このときはどうも御家人だったみたい。

次は「教久(よしひさ)」さんだ。通称は六左衛門。「父に継し御台所人を津(つ)とめ後神田の館に付属せられ延宝八年(1680年)徳松殿に志?かひたてまつり西城に勤仕す」徳松は五代将軍綱吉の夭折した世子の名前のはず。この人は前に見た綱吉の家臣の中にいた人だ。

延宝八年は綱吉が世子となったので徳松が舘林藩を継いで、そのまま西の丸に住んだとなっている。ということはこの人は舘林藩の人だったことになるな。

次「教光(よしみつ)」さん。四郎右衛門。「表御台所人をつとむ父神田乃(の)館に付属せらるるの時御家に?めらる」多分、教久さんが徳松君につけられたときに将軍様のほうのお役目をしてたのだろう。兄弟に「某」源蔵さん。「元禄十年(1697年)十二月五日父が遺跡を継 死するののち食禄は収めらる」教久さんは元禄十一年に記録にあるからその前に死んだのかな。教光さんは将軍様に、源蔵さんは徳松君に仕えたのだけど、早世してこっちの家は絶えたということか。

「教常(よしとき)」さん。八兵衛。うっかりしてないよね。「宝永六年(1709年)十一月二十二日遺跡を継 表御台所人をつとむ」

「教勝(よしかつ)」さん。八郎兵衛。「実は内田想左衛門重春が二男教常が養子となりてその女を妻とす  御膳所御台所人をつとめ享保四年(1719年)八月二十日家を継のち西城大奥御膳所の組頭をつとむ」あれ。なんか偉くなってない?婿養子ですな。

「教包(よしかね)」さん。市十郎 八郎右衛門。前の方は幼名かな。「母は教常が女 表御台所人をつとめ御膳所の御台所人となり延享元年(1745年)十二月二十二日遺跡を継のち西城御膳所の組頭に?し宝暦十年(1760年)五月十一日班を進められし二丸御膳所の御台所頭となる十一年」惇信院殿薨去により八月三日表御台所頭に?し天明元年(1781年)六月二十七日老を告し?を辞し小普請となるこのとき黄金二枚を賜ふ 七月十一日死す年七十二法名法山目白の大山寺に葬る  妻は坂野義六郎高慶が女」最初は将軍世子についていて、その時に頭に出世。これは旗本の役目。その後九代将軍家重が死んだのでそのまま将軍の係りにスライド。小普請は一応そういう名前の役目なんだけど、ほぼ無役に等しい。まあ、隠居したんですな。

「栄寿」読みがよく読めない。内蔵助。「母は高慶が女 宝暦十二年(1762年)四月十八日はじめて浚明院殿に拝褐し安永五年(1776年)十二月十九日小十人となり天明元年(1781年)十月八日遺跡を継時に三十八?的を射し時服をたまひ五年(1786年)四月二十三日組頭に?? 妻は村松氏の女」十代家治にお目見えしたと書いてある。小十人はいわば将軍の親衛隊で徒士ながら花形。その組頭になってるのでそれなりの役職だ。姉妹が三人居て、一人は大奥に、一人は田嶋氏の妻と書いてある。

「美雅(よしまさ)」やけに雅な名前だ。市十郎 八郎左衛門。最初は教包さんと同じ通称。「母は村松氏の女 天明五年(1786年)十二月九日はじめて浚明院殿にまみえたてまつる時に二十三?」やはり家治にお目見えしたっぽい。この人が最後になっている。多分、この人の代にこの記録が書かれたのだろう。姉妹が「菅沼岩之介君達が妻」と記述。

最後に「家紋 丸に橘 丸に八重菊」とある。丸に橘は讃岐岩澤氏と同じ。