四国の岩澤さんについて

西日本で点在する岩澤/岩沢さんのルーツについて

讃岐種苗株式会社について

国会図書館の検索サービスを使うと、結構いろいろなことがわかるらしい。文書で残っているものをどんどん電子化しているので検索が楽になっている。

そこで、私の母方の曽祖父の名前を入れてみたところ、讃岐種苗株式会社という会社の役員として名前が出てきた。この役員の名前に岩澤さんが沢山いる。

例として大正9年の帝国銀行会社要録

dl.ndl.go.jp

を見てみると、代表取締役として岩澤数太、取締役に岩澤勝美、岩澤章象の名前がある。

このうち、勝美氏と章象氏はのちに造田村の村長をやっている。章象氏は元村長の岩澤五平の息でもある。讃岐種苗株式会社は造田桑苗組合を吸収したのだが、造田桑苗組合は岩澤五平が組合長として創業されたようだ。

他の取締役には笠井極太郎、山下休次郎、寒川正廣、監査役に木内友七、笠井恒一がいる。このなかの寒川正廣が私の曽祖父である。

木内氏も造田村長に同姓が居るのでその身内ではなかろうか。村長であった岩澤昌博の名が見えないのは既に引退しているのであろうか。(昌博も私の曾祖父である)

 

ここらに名前の出てくる人物はおそらく当時の造田村(是弘地区?)の顔役と思われる。岩澤さん多すぎ。

ほぼ関係ないのだけど

十年ちょい前のアニメ、「Angel Beats!」に岩沢まさみというキャラクターが出てきます。

名前はブレッド&バターの岩沢兄弟(幸矢、二弓)からとのことですが、のちの設定からキャラの漢字名は「岩沢雅美」だということらしいです。

 

旗本岩沢家の、寛政重修諸家譜の最後にあった「岩沢美雅」と名前が逆になってるだけ。

最近気が付きました。偶然なんだろうけど。

岩沢文伯の師

香川県の岩沢一族に岩沢文伯という人がいます。この人は眼医者で高松藩に仕え、藩家老の家臣となって、その子孫は明治維新の時に士族になっています。是弘村に三家系あった牢人(名字帯刀を許された)岩沢家のうちの一つです。

この人物については地域史に記事となっているので少々詳しく知ることができます。それを読んでいた時に気になったのは、この人物が師として仕えた人物が手塚氏だということ。この手塚氏、代々高松藩に仕えた眼医者です。

で、手塚で医者というと、マンガの神様手塚治虫手塚治虫も医学博士であり、先祖代々医者の家系だというのは、彼の描いた「陽だまりの樹」にも書かれています。

で、どうやらこの高松藩の眼医者手塚氏も同族のようなのです。

手塚氏は諏訪神社下社金刺氏(大神氏)の一族で、手塚治虫も「家系図にそう書いてある」というようなことを言っています。高松藩の手塚氏も同じく手塚光盛の子孫ということなので、遠い近いはともかく同族で医者というのは共通しているようです。

江戸時代に同姓で医者として活躍している家系ということなので、もしかすると結構近い親戚だったのかもしれませんね。もしかすると全国に医者の手塚さんがいたのかも。

 

桓武平氏良文流千葉氏

このブログで扱っている岩澤さんは、桓武平氏を名乗っています。他にも藤原氏を名乗る岩澤さんもいるらしいです。

以前は特に資料がなかったのでどちらの系統なのかわかりませんでしたが、系図の内容を確認しましたので、今では「称桓武平氏」の岩澤だということが言えます。「称」と書いたように、自分が名乗っているだけでして、系図などというものはいくらでも作ることができるものなのです。

それでも、江戸時代では武家になるためにはそれなりの血筋であることを示すために、作ってでも系図を求められたのです。特に上級武士には顕著でした。というのも、京の朝廷から官位をもらうためには家柄がしっかりわかっていないといけなかったからなのです。そういうのが庶民にも広がり、特に裕福な商家や豪農などにもそのような系図づくりが流行りました。

今回は、岩澤家が名乗る桓武平氏、その中でも良文流、そして千葉氏について書いてみようと思います。

 

桓武平氏というのは、桓武天皇の孫やひ孫にあたる皇族が皇族をやめて臣下になり、「平朝臣」という「姓」をもらった人たちの子孫を言います。「桓武」とつくのは、先祖の天皇桓武天皇であった皇族が平朝臣になったという意味です。他の天皇の子孫にも平朝臣になった皇族はいるのですが(仁明、文徳、光孝の系統があります)、ほとんど目立つ人がいないため、だいたい平氏ならば桓武平氏というのが現状です。しかも、そのうちのほとんどが高望王の血筋です。他の人の血筋もある(というか、清盛以前は高棟王の血筋のことを平家と呼んでいた)のですが、あまりにも目立ってるのが現状です。

桓武平氏武家として非常に有名です。平将門平清盛といった有名人もいますし、鎌倉北条家もそうですし、関東には坂東八平氏と呼ばれる関東の各地に地盤を持った「平氏」が居ました。実は「良文流」と呼ばれる家から有力な八軒を坂東八平氏と呼んだのです。

桓武平氏良文流は、平将門と関係があると言われています。その祖、平良文は将門からは叔父にあたり(将門は良文の兄である良将の子)、平高望(もと高望王)の五番目の息子と言われています。通称は「村岡五郎」。実は同時代資料にはあまり活躍が記されておらず、将門の乱の際には将門側についたとされていますがはっきりしません。

その息子に忠頼という人物がいます。この人は通称「村岡次郎」。この人の妻が将門の娘の春姫です。この二人の間にできた子供に、忠常、将恒という二人がいます。先ほどの板東八平氏の半分ほどはこの二人の子孫です。

忠常は今の千葉県の辺りに地盤を作り、子孫はその付近で反映しました。将恒は武蔵国秩父に地盤を作り、子孫はその付近で反映しました。忠常の子孫は房総平氏と呼ばれ、後に嫡流は千葉氏を名乗ります。将恒の子孫は秩父氏となり、武蔵国に広く散らばっていきました。「川越」「畠山」「渋谷」「江戸」「小山田」などの各氏が秩父氏の一族と言われています。畠山氏は嫡流は取り潰され、その名跡を足利氏庶流が受け継ぎ、室町時代には管領を出します。渋谷氏も各地に散らばり、薩摩では島津氏と争うこととなります。

 

ここで扱う岩澤さんは、千葉氏の庶流を名乗っています。千葉氏は先ほどの平忠常から始まるとされます。実はこの人、平忠常の乱という大乱を引き起こし、今の千葉県全土を焦土と化したとされます(でも荒らしたのは討伐に来た朝廷軍側だと同時代の記録にあるそうです)。そして、源頼朝の先祖に当たる源頼信に下りました。これが清和源氏が関東に勢力を持つようになる契機になったと言われています。また、頼朝の挙兵に千葉氏がついたのもこの縁によるものともいわれます。

頼朝の挙兵のころには、忠常の子孫も数多くなり、いくつかの勢力に分かれていたそうです。そのうち、頼朝に協力した上総広常、千葉常胤がほかの勢力を打倒、吸収し、さらに広常が粛清されたことにより常胤が一族の盟主となりました。ここに房総平氏の本家としての千葉氏が成立したことになります。また、この人物の名前の「胤」の字を一族が好んで名乗るようになりました。

 

以前の記事で引いた「寛政重修諸家譜」には、桓武平氏の中に良文流という分類を作っています。その中でも秩父氏流などは「秩父流」のような小分類をつけています。ですがどうやら千葉氏流にはそのような注釈が付いていない模様です。岩澤家の載っている巻もみな千葉氏流であるようでした。というのも、なかの人の名前にみんな「胤」がついているのですね。でも、岩澤家の人には一人もついてませんでした。はてさて。

次右衛門と次左衛門

香川県の方の岩澤さんの初期に名前がある人は、治郎左衛門や次左衛門というような名前がある。

一方で、旗本の岩澤さんの初代が次右衛門。左右の違いはあるが、なんか関係がありそうな感じがする。

但し、諱は全く違うし、家系の通し字も違う。通し字は初代がなんかの理由で変更するようなことも多いので、それほど気にするものでもないかもしれない。特に旗本(多分初代は御家人だろう)ならば天下の幕府の直臣なので、その時に通し字を変更しているかもしれない。

香川県の岩澤さんの初代には、墓だったか系図だったかに江戸幕府幕臣の孫という記述があったという。次右衛門さんは家光(1623~1651)の時代の人なので、次左衛門さん(1730年代)が孫というのはあり得ないことではなさそうである。

長尾町史の記事に補足

 手元にある資料から、一部補足する。

 

庄屋次左衛門が治郎左衛門ではないかと思われる。

庄屋次左衛門と、牢人甚左衛門の関係。読み方が似ているため同一人物か直系子孫であると思われる。手元資料では親子。活躍時期が80年ほど違うので、間に二代ほどあるように思われる。甚左衛門は岩澤家が庄屋から外れた時期に牢人となっているので、庄屋役職として名字を名乗れたことの補償として牢人とされたのか。ただ、高松藩は江戸後期になってから豪農を牢人とする例が多い。これは、藩政の窮乏のために牢人株を売ったという話もある。

牢人甚左衛門の次代は養子の唯右衛門となっているが、どうやら孫を養子としたものらしい。手元資料では間に唯七という人物がいるのだが、多分夭折したために家督がそのように移ったものと思われる。

寅八(造田村3代村長昌博の父)は唯右衛門の次代清平の子供か兄弟ではないかと思われるが不明。時期的には兄弟と思われる。
また、昌博は幼少時に田中村の上田家に養子に行っていたが、呼び返されている。この後、昌博の娘が上田家に嫁入りしている。(この項、記事筆者の家での聞き取り)

手元資料では、牢人和五郎(志摩殿豪家来)-楳太郎-勝美(造田村12、15代村長)の実子関係となっている。楳と梅は同じ字。寺子屋として名前の出ている与平次と同名の人物も資料内にあり、その子孫に楳太郎が養子になったとある。このため、系譜としては勝美は与平次の子孫ととれる。

文伯の一族は家紋が違う。他は丸に橘なのだがこの家のみ丸に釘抜きとなっている。釘抜き紋とは穴の開いた四角で、目結紋に似ているのだがその成立が違うのと、穴の大きさが違う。多分、この家のみ眼医者として藩にかかわったため、別に紋を下賜されたのではないかと推測する。

村会議員にいる、数太、判朔、朔、八五郎も資料中に名前がある。このうち、判朔は半作となっており、朔の父として名前が出てくる。半作は和五郎の養子のようである。

 牢人は藩から与えられた身分で、武士と同等の特権を当主のみ持つことができるようになったものらしい。これは高松藩のローカルルール。このローカルルールは藩ごとに違うので一般化はできない。

農協、農業委員会に名前のある、正一、敬夫は親子関係にある。また、これ以降は現在の人物であるため解説を省く。

 Wikipediaにある岩澤靖氏は、手元の資料によれば清平の子孫にあたる。但し、名字のみ貰っただけの別家(隣村の豪農)の扱いとのこと。

長尾町史より

香川県大川郡長尾町が合併してさぬき市になる前に長尾町史という文書が出ている。

この中に、岩澤氏が何回か登場するのだが、その中から追っていこう。

 

まず、是弘村の庄屋として名前が出ている人物を上げる。

享保、元文、寛保、延享年間(~1736~1748) 岩沢次左衛門(嘉左衛門)

宝暦、明和、安永、天明年間(1751~1789) 岩沢伊作(作次)

寛政、享和年間(1789~1804) 岩沢孫次郎(茂六)

 

長百姓に次の名がある

岩沢新太郎 嘉永四年(1851年)十二月

 

次に寺子屋として名前が出ている人物

岩沢与平次、岩沢菊治(両名とも是弘村)

 

系図が載っているもの。牢人として名字帯刀を認められたもの。これは当主のみ世襲とされたらしい。

岩沢湛左衛門(只右衛門)「文化11年(1814)より牢人」-唯右衛門(湛左衛門)「弘化元年(1844)養子」-清平

岩沢和五郎「慶応三年(1867)志摩殿郷家来」

岩沢文伯「文政10年(1827)帯刀」-一馬重義(謙斎)「大久保飛騨に仕う」-方三(重治)「養子」-重男

(注釈:志摩殿は松平頼利か。高松松平家の一門家老の松平大膳家七代。大久保飛騨は高松松平家大老大久保主計家当主と思われる。)

 

造田村村長として名が出ており、親子関係の分かるもの

岩沢五平(安政二年(1855)七月二十四日(長男)~大正六年三月三日)(二代村長 明治二十八年(1895)八月三十日~明治二十九年五月二十日)-岩沢章象(明治二十五年十一月二十五日(次男)~昭和五十七年五月二十四日)(10代村長 昭和二年十一月十日~昭和七年二月三日)

岩沢寅八-岩沢昌博(文久元年(1861)七月五日(次男)~大正14年(1925)六月二日)(三代村長 明治29年(1896)七月四日~38年(1905)四月三日)

岩沢梅太郎-岩沢勝美(明治二十七年二月十四日(次男)~昭和四十五年四月十一日)(12代村長 昭和十一年三月五日~昭和二十一年十一月二十日、15代村長 昭和二十八年八月一日~昭和三十一年九月十五日)

 

造田村の三役、議員に名前のある、上記以外の岩沢さん。
岩沢数太、岩沢判朔、岩沢八五郎、岩沢朔

多和小学校の校長に名前のある人
岩沢九平(明治三十七年四月~明治三十八年三月)

造田小学校PTA会長に名前がある人
岩沢朔(四代 昭和三十一年~三十二年)岩澤清水(十三代 昭和五十七年~五十九年)

 造田農業協同組合の理事、監事に名前がある人
岩沢正一

長尾町農業委員に名前がある人
岩沢敬夫

 

岩沢勝美氏や岩沢八五郎氏は精力的に活躍しており、様々な役職を歴任している。

 

資料再読次第この項は細部を追加する。