四国の岩澤さんについて

西日本で点在する岩澤/岩沢さんのルーツについて

長尾町史の記事に補足

 手元にある資料から、一部補足する。

 

庄屋次左衛門が治郎左衛門ではないかと思われる。

庄屋次左衛門と、牢人甚左衛門の関係。読み方が似ているため同一人物か直系子孫であると思われる。手元資料では親子。活躍時期が80年ほど違うので、間に二代ほどあるように思われる。甚左衛門は岩澤家が庄屋から外れた時期に牢人となっているので、庄屋役職として名字を名乗れたことの補償として牢人とされたのか。ただ、高松藩は江戸後期になってから豪農を牢人とする例が多い。これは、藩政の窮乏のために牢人株を売ったという話もある。

牢人甚左衛門の次代は養子の唯右衛門となっているが、どうやら孫を養子としたものらしい。手元資料では間に唯七という人物がいるのだが、多分夭折したために家督がそのように移ったものと思われる。

寅八(造田村3代村長昌博の父)は唯右衛門の次代清平の子供か兄弟ではないかと思われるが不明。時期的には兄弟と思われる。
また、昌博は幼少時に田中村の上田家に養子に行っていたが、呼び返されている。この後、昌博の娘が上田家に嫁入りしている。(この項、記事筆者の家での聞き取り)

手元資料では、牢人和五郎(志摩殿豪家来)-楳太郎-勝美(造田村12、15代村長)の実子関係となっている。楳と梅は同じ字。寺子屋として名前の出ている与平次と同名の人物も資料内にあり、その子孫に楳太郎が養子になったとある。このため、系譜としては勝美は与平次の子孫ととれる。

文伯の一族は家紋が違う。他は丸に橘なのだがこの家のみ丸に釘抜きとなっている。釘抜き紋とは穴の開いた四角で、目結紋に似ているのだがその成立が違うのと、穴の大きさが違う。多分、この家のみ眼医者として藩にかかわったため、別に紋を下賜されたのではないかと推測する。

村会議員にいる、数太、判朔、朔、八五郎も資料中に名前がある。このうち、判朔は半作となっており、朔の父として名前が出てくる。半作は和五郎の養子のようである。

 牢人は藩から与えられた身分で、武士と同等の特権を当主のみ持つことができるようになったものらしい。これは高松藩のローカルルール。このローカルルールは藩ごとに違うので一般化はできない。

農協、農業委員会に名前のある、正一、敬夫は親子関係にある。また、これ以降は現在の人物であるため解説を省く。

 Wikipediaにある岩澤靖氏は、手元の資料によれば清平の子孫にあたる。但し、名字のみ貰っただけの別家(隣村の豪農)の扱いとのこと。