最近、自分の家系についていろいろ調べています。また、同じ名字の方々からの情報もいただいています。そこで、今ある情報を並べて、精度を上げていきたいという趣旨です。
私は、香川県さぬき市の造田地区の生まれです。ここには岩沢/岩澤という名字が固まっています。
実は、岩澤さんは、西日本ではこの地区と兵庫県の一部、鹿児島の一部に固まっていまして、そのほかの地域にはあまり見られません。東日本では千葉、神奈川を中心にかなりの人数が居ます。芸能人にも何人かいますよね。
今までの調査で、香川県の造田地区の岩澤さんは、岩澤治郎左衛門という人が祖ではないかという結果になっています。この人物は、この地区の町史にも載っているため既に公知の情報です。
現在、造田地区の岩澤さんの幾人かがこのあたりを趣味として調査しております。この方たちの興味は、自分たちの関係(岩澤さん達の家系の関係)についてが主で、その先については資料があまりありません。
私はどちらかと言いますと、この治郎左衛門がどこから来た何者かに興味があります。どうやらこの人物から私までの関係についてはほぼ結論が出ているようですので、そちらにはあまり触れません。
現在の私の推測は、江戸幕府の五代将軍徳川綱吉の旗本にいた、岩沢六左衛門教久
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/80/711/80_1213/_pdf
(上記リンク内の表5の2行目に記載)の孫が、治郎左衛門なのではないかというものです。
六左衛門は綱吉による新規取り立てらしく、その以前は不明です。また、六左衛門と治郎左衛門の関係も不明です。私がこの二人をつなげているのは次のような理由です。
- 治郎左衛門の墓に、将軍家臣の孫であると読める文が彫られていること
- 時代的に、六左衛門と治郎左衛門で間に一人いればつじつまが合いそうなこと
- 地域史に岩澤氏が突然是弘村(現在の造田地区の一部)の庄屋として現れていること。是弘村は当時高松藩の支配下にあり、高松藩は水戸徳川家の連枝に当たるため、徳川家の影響によって庄屋としておかれたのではないかという推測。
- 「治郎左衛門」は太郎左衛門の弟で、彼が分家したという記述が系図にあること。治郎は次郎の当て字の可能性が強く、本家は代々太郎左衛門を名乗っている。六左衛門も太郎左衛門家の一族としてはあり得る名前であること。
- 旗本岩沢家の家紋が「丸に橘」で、現在の造田岩澤一族のほとんどと同じであること。また、桓武平氏千葉氏流を名乗っていること。私どもの系図も千葉氏の分流となっていること。(千葉家庶流、白井八郎胤時の末裔を主張。同族に鏑木氏とも。)
少し弱い点としては、系図では代々「重」を名前の一字に使っていることがあります。治郎左衛門も諱は「貞平」らしく、六左衛門も「教久」で二人とも「重」を使っていません。ただ、この時代は政治的な関係により名前を変えることはよくありましたので、改名後の名前が残っている可能性があります。又は庶流で、本家は「重」を名乗り続けていたのかもしれません。
江戸時代の終わりごろに一族から眼医者が出ており、この家系は代々「重」を名前に持っています。このことから、実は「重」が家系の通り字である伝承が伝わっていた可能性もあります。(系図に代々「重」を使ってる人がいたのでそれに倣ったのかもしれませんが)
現在の興味は、
- 六左衛門と治郎左衛門の正確な関係
- 六左衛門がどこの出身であるか。綱吉の家臣は舘林藩時代もほとんどが幕臣からのスライドであるのに、六左衛門以前に岩沢という幕臣はいないらしいため。
- 六左衛門の子孫の方がおられたら、その情報
になります。このあたりの情報をお持ちの方は、お気軽にご連絡をください。