四国の岩澤さんについて

西日本で点在する岩澤/岩沢さんのルーツについて

桓武平氏良文流千葉氏

このブログで扱っている岩澤さんは、桓武平氏を名乗っています。他にも藤原氏を名乗る岩澤さんもいるらしいです。

以前は特に資料がなかったのでどちらの系統なのかわかりませんでしたが、系図の内容を確認しましたので、今では「称桓武平氏」の岩澤だということが言えます。「称」と書いたように、自分が名乗っているだけでして、系図などというものはいくらでも作ることができるものなのです。

それでも、江戸時代では武家になるためにはそれなりの血筋であることを示すために、作ってでも系図を求められたのです。特に上級武士には顕著でした。というのも、京の朝廷から官位をもらうためには家柄がしっかりわかっていないといけなかったからなのです。そういうのが庶民にも広がり、特に裕福な商家や豪農などにもそのような系図づくりが流行りました。

今回は、岩澤家が名乗る桓武平氏、その中でも良文流、そして千葉氏について書いてみようと思います。

 

桓武平氏というのは、桓武天皇の孫やひ孫にあたる皇族が皇族をやめて臣下になり、「平朝臣」という「姓」をもらった人たちの子孫を言います。「桓武」とつくのは、先祖の天皇桓武天皇であった皇族が平朝臣になったという意味です。他の天皇の子孫にも平朝臣になった皇族はいるのですが(仁明、文徳、光孝の系統があります)、ほとんど目立つ人がいないため、だいたい平氏ならば桓武平氏というのが現状です。しかも、そのうちのほとんどが高望王の血筋です。他の人の血筋もある(というか、清盛以前は高棟王の血筋のことを平家と呼んでいた)のですが、あまりにも目立ってるのが現状です。

桓武平氏武家として非常に有名です。平将門平清盛といった有名人もいますし、鎌倉北条家もそうですし、関東には坂東八平氏と呼ばれる関東の各地に地盤を持った「平氏」が居ました。実は「良文流」と呼ばれる家から有力な八軒を坂東八平氏と呼んだのです。

桓武平氏良文流は、平将門と関係があると言われています。その祖、平良文は将門からは叔父にあたり(将門は良文の兄である良将の子)、平高望(もと高望王)の五番目の息子と言われています。通称は「村岡五郎」。実は同時代資料にはあまり活躍が記されておらず、将門の乱の際には将門側についたとされていますがはっきりしません。

その息子に忠頼という人物がいます。この人は通称「村岡次郎」。この人の妻が将門の娘の春姫です。この二人の間にできた子供に、忠常、将恒という二人がいます。先ほどの板東八平氏の半分ほどはこの二人の子孫です。

忠常は今の千葉県の辺りに地盤を作り、子孫はその付近で反映しました。将恒は武蔵国秩父に地盤を作り、子孫はその付近で反映しました。忠常の子孫は房総平氏と呼ばれ、後に嫡流は千葉氏を名乗ります。将恒の子孫は秩父氏となり、武蔵国に広く散らばっていきました。「川越」「畠山」「渋谷」「江戸」「小山田」などの各氏が秩父氏の一族と言われています。畠山氏は嫡流は取り潰され、その名跡を足利氏庶流が受け継ぎ、室町時代には管領を出します。渋谷氏も各地に散らばり、薩摩では島津氏と争うこととなります。

 

ここで扱う岩澤さんは、千葉氏の庶流を名乗っています。千葉氏は先ほどの平忠常から始まるとされます。実はこの人、平忠常の乱という大乱を引き起こし、今の千葉県全土を焦土と化したとされます(でも荒らしたのは討伐に来た朝廷軍側だと同時代の記録にあるそうです)。そして、源頼朝の先祖に当たる源頼信に下りました。これが清和源氏が関東に勢力を持つようになる契機になったと言われています。また、頼朝の挙兵に千葉氏がついたのもこの縁によるものともいわれます。

頼朝の挙兵のころには、忠常の子孫も数多くなり、いくつかの勢力に分かれていたそうです。そのうち、頼朝に協力した上総広常、千葉常胤がほかの勢力を打倒、吸収し、さらに広常が粛清されたことにより常胤が一族の盟主となりました。ここに房総平氏の本家としての千葉氏が成立したことになります。また、この人物の名前の「胤」の字を一族が好んで名乗るようになりました。

 

以前の記事で引いた「寛政重修諸家譜」には、桓武平氏の中に良文流という分類を作っています。その中でも秩父氏流などは「秩父流」のような小分類をつけています。ですがどうやら千葉氏流にはそのような注釈が付いていない模様です。岩澤家の載っている巻もみな千葉氏流であるようでした。というのも、なかの人の名前にみんな「胤」がついているのですね。でも、岩澤家の人には一人もついてませんでした。はてさて。