四国の岩澤さんについて

西日本で点在する岩澤/岩沢さんのルーツについて

昨日の記事を見直す

旗本岩澤氏の系図を概観してみる。

まず、岩澤次右衛門教正は徳川三代将軍家光の時に、どうやら料理人の一人として雇われたらしいように思う。ほかのサイトを見ると、なんと、百人いたらしい。多分旗本ではなく御家人の扱い。

この人の名前「次右衛門」は讃岐岩澤氏の祖「治郎左衛門」と似通っている。代々「衛門」を名乗っているけど、まあ、この時代は大体そんなものだろう。

岩澤六右衛門教久は舘林藩の所属のように見える。四代将軍家綱の弟である後の五代将軍綱吉は、はじめ舘林藩の藩主となった。と言っても現地に行ったことは一度だけらしい。江戸に住んでいて、家臣もほとんど江戸にいる。家臣団もほとんどが幕臣からのスライドなので、まあ、出向したようなものだ。そして綱吉が将軍になることと、その息子徳松の夭折で、みな幕臣にもどる。出向先から本社に戻ったようなものだ。

その後、岩澤四郎右衛門教光、岩澤八兵衛教常と同じ地位を継ぎ、その次の代に内田さんから婿養子に来た岩澤八郎兵衛教勝が組頭に出世している。台所人の組頭はそれなりの役料をもらう御家人だそうだ。

岩澤八郎右衛門教包は最初は台所人として出仕した後、父の跡を継いで組頭になっている。そして台所頭にまで出世した。この役目は旗本が務めるものなので、この時にお目見え格になったものと思われる。年を取って引退して小普請になるのだけど、これは「無役の旗本」と同義。

岩澤内蔵助栄寿は十代将軍家治に「お目見え」している。これは旗本であることを示している。しかも「小十人」という将軍親衛隊に入隊している。しかもその後組頭にまで出世している。前後関係からすると、父が旗本になったのちにその後継ぎとして将軍にお目見え、これは単に一緒の場にいるだけで顔を合わせたりもしないのらしいけれども、それだけで格が一気に上がる。そして小十人というのは、出来のいい御家人が旗本へ出世する糸口になるところらしい。つまり、家そのものが出世街道に上ったということになる。小十人組頭になると騎乗できる。ここでやっとまともな旗本になったということだろう。

岩澤八郎左衛門美雅も十代将軍家治にお目見えしている。それが天明五年(1786年)。これが書かれている寛政重修諸家譜は寛政年間(1789~1801年)に作られ始め、文化九年(1812年)に成立なので、この人は同時代人だろう。

 

通して、この家の通し字は「教」で読みは「よし」であることがわかる。最後の二人も「よし」と読めるので、旗本になった記念に字を変えたのかもしれない。

通称が「次(二)」「六」「四」「八」なのも面白い。内蔵助は後で名前を変えたのかもしれない。多分、若いときには八郎衛門とかその手の名前で、旗本になって内蔵助になったのじゃないかと思う。美雅も後にその手の名前に変えてるかもしれない。これは実際に朝廷に役職(但し武家用)を申請してもらう類の名前だから。

 

旗本岩澤氏について

同族かもしれない岩澤さんに、旗本岩澤氏がある。というのも家紋が同じらしいからだ。ということで、実際に資料にあたってみた。

資料は、「寛政重修諸家諸巻第千三百五十一」。この中に平氏良文流のいくつかの家の家系図が書かれている。そしてその中の一つが岩澤氏だ。

今はすごい時代で、国会図書館に収められている資料がネットで読める。

https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M2015120715211619925

公開されてるし、江戸時代の著作なので著作権もへったくれもない。さっさと見て行こう。

最初に書かれている高樋氏のところに、「先祖千葉を称し云々」と書かれているので、この巻に纏められているのは千葉氏流ということになる。

岩澤は「いはさハ」となぜか最後だけカタカナになってる。

最初は「教正(よしまさ)」さんだ。通称は次右衛門。「大猷院殿(徳川家光)の御時?れて御臺(台)所人となる」、と書いている。

というか、これ、料理人だったってこと?それとも御台所関係の役人さん?

最初の大猷院殿というのは徳川三代将軍家光のこと。このときはどうも御家人だったみたい。

次は「教久(よしひさ)」さんだ。通称は六左衛門。「父に継し御台所人を津(つ)とめ後神田の館に付属せられ延宝八年(1680年)徳松殿に志?かひたてまつり西城に勤仕す」徳松は五代将軍綱吉の夭折した世子の名前のはず。この人は前に見た綱吉の家臣の中にいた人だ。

延宝八年は綱吉が世子となったので徳松が舘林藩を継いで、そのまま西の丸に住んだとなっている。ということはこの人は舘林藩の人だったことになるな。

次「教光(よしみつ)」さん。四郎右衛門。「表御台所人をつとむ父神田乃(の)館に付属せらるるの時御家に?めらる」多分、教久さんが徳松君につけられたときに将軍様のほうのお役目をしてたのだろう。兄弟に「某」源蔵さん。「元禄十年(1697年)十二月五日父が遺跡を継 死するののち食禄は収めらる」教久さんは元禄十一年に記録にあるからその前に死んだのかな。教光さんは将軍様に、源蔵さんは徳松君に仕えたのだけど、早世してこっちの家は絶えたということか。

「教常(よしとき)」さん。八兵衛。うっかりしてないよね。「宝永六年(1709年)十一月二十二日遺跡を継 表御台所人をつとむ」

「教勝(よしかつ)」さん。八郎兵衛。「実は内田想左衛門重春が二男教常が養子となりてその女を妻とす  御膳所御台所人をつとめ享保四年(1719年)八月二十日家を継のち西城大奥御膳所の組頭をつとむ」あれ。なんか偉くなってない?婿養子ですな。

「教包(よしかね)」さん。市十郎 八郎右衛門。前の方は幼名かな。「母は教常が女 表御台所人をつとめ御膳所の御台所人となり延享元年(1745年)十二月二十二日遺跡を継のち西城御膳所の組頭に?し宝暦十年(1760年)五月十一日班を進められし二丸御膳所の御台所頭となる十一年」惇信院殿薨去により八月三日表御台所頭に?し天明元年(1781年)六月二十七日老を告し?を辞し小普請となるこのとき黄金二枚を賜ふ 七月十一日死す年七十二法名法山目白の大山寺に葬る  妻は坂野義六郎高慶が女」最初は将軍世子についていて、その時に頭に出世。これは旗本の役目。その後九代将軍家重が死んだのでそのまま将軍の係りにスライド。小普請は一応そういう名前の役目なんだけど、ほぼ無役に等しい。まあ、隠居したんですな。

「栄寿」読みがよく読めない。内蔵助。「母は高慶が女 宝暦十二年(1762年)四月十八日はじめて浚明院殿に拝褐し安永五年(1776年)十二月十九日小十人となり天明元年(1781年)十月八日遺跡を継時に三十八?的を射し時服をたまひ五年(1786年)四月二十三日組頭に?? 妻は村松氏の女」十代家治にお目見えしたと書いてある。小十人はいわば将軍の親衛隊で徒士ながら花形。その組頭になってるのでそれなりの役職だ。姉妹が三人居て、一人は大奥に、一人は田嶋氏の妻と書いてある。

「美雅(よしまさ)」やけに雅な名前だ。市十郎 八郎左衛門。最初は教包さんと同じ通称。「母は村松氏の女 天明五年(1786年)十二月九日はじめて浚明院殿にまみえたてまつる時に二十三?」やはり家治にお目見えしたっぽい。この人が最後になっている。多分、この人の代にこの記録が書かれたのだろう。姉妹が「菅沼岩之介君達が妻」と記述。

最後に「家紋 丸に橘 丸に八重菊」とある。丸に橘は讃岐岩澤氏と同じ。

Wikipediaにも記述のある岩澤靖氏について

題名の人物について。

結論から言いますと、香川県の岩澤家の祖と思われる岩澤治郎左衛門とは系譜上のつながりがあります。但し、非常に込み入った関係です。

 

この方の一族がまだ地元におられること、この方の子孫もご存命のようですので、あまり詳しいことは記述しません。

簡単に説明しますと

  • 靖氏の先祖が、治郎左衛門の子孫の養子になり、岩澤の姓を名乗った
  • この人物は、治郎左衛門とは別の家の養子となり、岩澤姓のままその家を継いだ
  • この件に関わる家は全て庄屋クラスだった(養子となった人物の出身家も、継いだ家も、同じクラス)

ということです。

 

ある程度の資料は存在しているのですが、現在のわれわれにとっても、なぜこのような経緯が生じたのかわからないため、この場においてはこれ以上の言及はしないこととします。

四国の岩澤さんについて

最近、自分の家系についていろいろ調べています。また、同じ名字の方々からの情報もいただいています。そこで、今ある情報を並べて、精度を上げていきたいという趣旨です。

 

私は、香川県さぬき市の造田地区の生まれです。ここには岩沢/岩澤という名字が固まっています。

実は、岩澤さんは、西日本ではこの地区と兵庫県の一部、鹿児島の一部に固まっていまして、そのほかの地域にはあまり見られません。東日本では千葉、神奈川を中心にかなりの人数が居ます。芸能人にも何人かいますよね。

 

今までの調査で、香川県の造田地区の岩澤さんは、岩澤治郎左衛門という人が祖ではないかという結果になっています。この人物は、この地区の町史にも載っているため既に公知の情報です。

現在、造田地区の岩澤さんの幾人かがこのあたりを趣味として調査しております。この方たちの興味は、自分たちの関係(岩澤さん達の家系の関係)についてが主で、その先については資料があまりありません。

 

私はどちらかと言いますと、この治郎左衛門がどこから来た何者かに興味があります。どうやらこの人物から私までの関係についてはほぼ結論が出ているようですので、そちらにはあまり触れません。

 

現在の私の推測は、江戸幕府の五代将軍徳川綱吉の旗本にいた、岩沢六左衛門教久

https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/80/711/80_1213/_pdf

(上記リンク内の表5の2行目に記載)の孫が、治郎左衛門なのではないかというものです。

六左衛門は綱吉による新規取り立てらしく、その以前は不明です。また、六左衛門と治郎左衛門の関係も不明です。私がこの二人をつなげているのは次のような理由です。

  • 治郎左衛門の墓に、将軍家臣の孫であると読める文が彫られていること
  • 時代的に、六左衛門と治郎左衛門で間に一人いればつじつまが合いそうなこと
  • 地域史に岩澤氏が突然是弘村(現在の造田地区の一部)の庄屋として現れていること。是弘村は当時高松藩支配下にあり、高松藩水戸徳川家の連枝に当たるため、徳川家の影響によって庄屋としておかれたのではないかという推測。
  • 「治郎左衛門」は太郎左衛門の弟で、彼が分家したという記述が系図にあること。治郎は次郎の当て字の可能性が強く、本家は代々太郎左衛門を名乗っている。六左衛門も太郎左衛門家の一族としてはあり得る名前であること。
  • 旗本岩沢家の家紋が「丸に橘」で、現在の造田岩澤一族のほとんどと同じであること。また、桓武平氏千葉氏流を名乗っていること。私どもの系図も千葉氏の分流となっていること。(千葉家庶流、白井八郎胤時の末裔を主張。同族に鏑木氏とも。)

少し弱い点としては、系図では代々「重」を名前の一字に使っていることがあります。治郎左衛門も諱は「貞平」らしく、六左衛門も「教久」で二人とも「重」を使っていません。ただ、この時代は政治的な関係により名前を変えることはよくありましたので、改名後の名前が残っている可能性があります。又は庶流で、本家は「重」を名乗り続けていたのかもしれません。

江戸時代の終わりごろに一族から眼医者が出ており、この家系は代々「重」を名前に持っています。このことから、実は「重」が家系の通り字である伝承が伝わっていた可能性もあります。(系図に代々「重」を使ってる人がいたのでそれに倣ったのかもしれませんが)

 

現在の興味は、

  • 六左衛門と治郎左衛門の正確な関係
  • 六左衛門がどこの出身であるか。綱吉の家臣は舘林藩時代もほとんどが幕臣からのスライドであるのに、六左衛門以前に岩沢という幕臣はいないらしいため。
  • 六左衛門の子孫の方がおられたら、その情報

になります。このあたりの情報をお持ちの方は、お気軽にご連絡をください。